『三河物語』を書いた、大久保彦左衛門忠教(ただたか)

三河物語

徳川家康の話は『三河物語』を参考にし
てあります。この物語、戦国時代~江戸
時代初期を知る為の一次資料。
三河物語を書いた、大久保彦左衛門は
1560年に三河の国で生まれ、父は家康
の祖父、松平清康から3代にわたり、
松平家、徳川家に仕えた重臣でした。

1560年といえば、信長が今川義元を
奇襲?ランチェスター戦略?で破った
あの有名な桶狭間の戦いの頃。
家康が17歳の時。

『三河物語』の作者、大久保彦左衛
門忠教も少年時代から松平家(徳川家)に
仕え、家康の合戦にほとんど参戦した
武断派の武将の一人、槍の名人、コノ人
家康、秀忠、家光など、徳川3代に仕え
ました。1639年に死去。御年80才。

徳川家康

家康がつくった江戸時代のような泰平の
世になれば、戦場での槍も無用の長物。
徳川政権下では外様の名門大名や行政手
腕に長けた文吏派の武将(文官)たちが
幅を利かせるようになり、大久保家は
没落の一途。

大久保彦左衛門忠教

忠教も1000石取りの旗本にしかなれませ
んでした。『三河物語』はそんな中で書
かれた。冒頭の前書きが『御主君様は
譜代の家臣の家筋さえも御存知なく家臣
たちも長年の働きが分からなくなってい
る。子どもならなおさら、その辺の事情
を知らないので、わたしはココに記する
ことにする。他家のことは書いてない。
皆さんも自分の家の忠節、活躍、家筋を
書き記して子や子孫に譲られるとよかろ
う。』と。

『三河物語』では大半が家康の活躍が
書いてある。忠教は『子供たちよ、よく
聞け』の言葉に続けて、大久保家の子供
たちが心掛けるべき振る舞いが記して
ある。『サザエさん』の波平さんが説教
している感じデス。

波平さんが説教する

特に主君をウラ切るものや、卑劣な行い
をする者が出世し、主君に忠義を尽くす
者が出世しない、と言うくだりは自虐。
計算高い家臣や新参の外様が優遇され、
自分たちのような古参のワレワレが不遇
であるのはなあ、と徳川家に対して皮肉
っておる。
多くの人が大久保彦左衛門忠教からイメ
ージするのは、やはり、『天下の御意見
番』としての姿。

たらいに乗って登城する大久保彦左衛門

ワタクシがいいなと思ったのは、『たと
え飢え死にしたとしても、主君を裏切る
ようなことをしてはならん。』と子孫た
ちに忠義を説いているのと、『大切なの
は、富でも命でもなく、名誉じゃ』

その思いは『人は一代、名は末代』と
いう言葉に集約されています。

 

 

 

 

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