「応仁の乱」はホント、人気がないなぁ。

京の都は焼け野原

 

応仁の乱って、1467年に始まり、約11年
の長きにわたる争いで京都を焼け野原に
したと言われる、日本史を代表する乱で
す。

だがしかし、この応仁の乱、名前と年月
は知っていても、どんな争いだったか案
外知られていません。

まず、応仁の乱の起こった室町時代自体
人気がナイ。

そしてもう一つ、おそらくこれが一番大
きい要因だと思うのですが、発生から終
息までの経緯が複雑すぎる。

この後にやってくる戦国時代は大人気だ
というのに。

原因は、銀閣寺で有名な室町幕府の8代
将軍義政に子どもがいなかったので、
「次期将軍は弟の君に譲るよ」と約束し
た。

でもその後すぐ子どもができちゃった。

そして守護大名の権力争いも一緒になっ
て、またややっこしい話になって、京都
を東と西に分かれて戦いがおきた。

これが応仁の乱。

大名は最初東軍に味方していたのに、気
がつけば西軍へついてたとか、大名たち
の思惑が渦巻きのようになり、あっちに
味方したりこっちに味方したり、コント
ンと11年間も続いた。

でも争いはいずれ終わる。
何で終わったか結論から言います。

まず、飽きたから。
応仁の乱には勝者も敗者もありません。

ただただ11年間、ズルズル、ダラダラ
争い続け「オレたち何のために争ってる
んだろう」と、いつの間にか争う理由も
忘れ去られた。

それでも敵がいるんだからとりあえず戦
おうという感じになり、京都は焼け野原。

そして、やがて「もういいんじゃねぇ?
」みたいな空気が出てきて、もう飽きた
しやめようか、ということで終わりまし
た。

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