なぜ、イランとイスラエルは仲が悪い?(後半)

 

イスラム教シーア派の最高指導者のホメイニ氏

                 【続きです】

イランとイスラエルはもともと仲が悪か
ったわけではありません。1950~1960年
代には国交を結んでいました。当時のイ
ランは親米の国王が治めていたので、ア
メリカを後ろだてとするイスラエルと比
較的近い関係にあったんです。

アラブ人とユダヤ人は、元々仲良しだった。

イラン(アラブ人)とイスラエル(ユダヤ人)は元々、仲が悪かったわけではありません。

ですが、1979年に起こったイラン革命が
これをぶち壊したんですよ。この革命の
発端はイラン国王のパフラビ2世がアメ
リカの支援でイランをアメリカ化しよう
としたんです。もともとイランはイスラ
ム教を中心とする「伝統」を大事にして
いたんですが、この王様、いきなり
「伝統文化、や~めた!今日から西洋の
文化に塗り替えるぞ!西洋の文化はスバ
ラシイ、それに比べてイランの文化は古
臭いから壊しちゃおう!」と国民の考え
や発言は許されなかった。

皇帝パフラビ2世はイラン(アラブ人)をアメリカ化しようとした。

でも、伝統を重視する国民は猛反発。
そこで怒ったイラン民衆はイスラム教を
中心に反対運動をしたんですよ。ところ
がこれを皇帝が弾圧。急激な改革により
伝統文化が消滅。経済も混乱し、貧富の
格差は広がるわ、国中がガタガタになっ
たんですよ。

イラン民衆(アラブ人)は皇帝のアメリカ化に反対しデモしたが、弾圧された。

そんな時にその流れを変えようとする人
物が現れたんですよ。その人物こそイス
ラム教シーア派の指導者ホメイニ氏です
。ホメイニ氏は政府の方針を激しく批判
し、やがて抵抗運動のシンボルになった
。これをみた皇帝はすぐにホメイニ氏を
捕らえて、国外に追放し、抵抗運動を抑
え込んだのです。

パフラム2世とホメイニ氏

それから10年くらい経った時のことです
。そのあいだ皇帝が進めていた改革がど
うなっていたかと言うと、実はうまくい
ってなかったんです。貧富の差はますま
す拡大し、政治への不満がますます高ま
っていきました。

皇帝の改革は上手くいってなかった。貧富の差はますます拡大し、政治への不満が高まった。

そんなある日、新聞にホメイニ氏を侮辱
する記事が掲載されたんです。これを見
て、学生が「尊敬するホメイニ氏に何て
こと言うんだ!」と激怒しデモをしたん
ですよ。このデモを政府が弾圧すると、
ここで国民の怒りが頂点に達し、各地で
デモ、暴動が多発。身の危険を感じた皇
帝パフラビ2世は国外へ逃亡しました。

デモを弾圧すると、国民の怒りは頂点に達し、各地で暴動が多発。身の危険を感じた皇帝パフラビ2世は国外へ逃亡した。

アメリカ化を進めてきた国王がいなくな
ったので、このイラン革命によって、ア
メリカ寄りの方針は終わりました。代わ
って、新たな指導者になったホメイニ氏
は亡命先から帰国し、イスラムの原点に
立ち返って国造りをしていくぞと。そう
やってイラン・イスラム共和国という新
しい国ができたんですよ。言わば、
《民主主義×イスラム教》というまった
く新しい国。

ホメイニ氏が亡命先から帰国し、イラン・イスラム共和国をつくった。

こうして長らく続いた皇帝の支配が終わ
り、そして、この時からイラン(アラブ
人)はイスラエル(ユダヤ人)を聖地エルサ
レムを奪った敵とみなすようになりまし
た。イランとイスラエルは敵。イスラエ
ルの仲間のアメリカも敵ということです。

イスラエル(ユダヤ人)とイラン(アラブ人)は敵

       おしまい

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