今は、ロシアが悪者になっていますが、
第2次世界大戦前はドイツが悪者だった
んです。実はNATOは大国ロシアに対
抗する為と、もう1つドイツを封じ込め
る目的で作られました。アメリカを
NATOに引き込んだのが大きかった。
ドイツはもともと小さな国の寄せ集めで
それがドイツとして統一されたのが、
1871年。まあ、明治維新とたいして
変わらない頃。この国の中心人物は鉄血
宰相と呼ばれたビスマルク。この人は外
交の達人。そのビスマルクが恐れていた
のが、お隣のフランス。フランスは少し
前にドイツに敗れたばかりで、ドイツに
恨みを持っていました。
で、外交の名人ビスマルクはお隣のフラ
ンスを孤立させようと思い、親戚のイギ
リスとも手を組もうとしたのですが、
イギリスとフランスは仲が悪いので、
英・仏が手を組むなんてことはありませ
ん。そこで目を付けたのが東のロシア。
ドイツから見れば、西にフランス、東に
ロシア、この2つが手を組めば、ドイツは
ハサミ撃ちにされる。で、何としても
ロシアを味方に付けなければなりません
そこで、ビスマルクはドイツ・ロシア・
オーストリアによる三帝同盟、そして
ドイツ・ロシア・イタリアによる三国同
盟を結びます。これでフランス包囲網は
できた。しばらくは平穏な日々が続いた
のですが、ドイツ皇帝に新しくウイルヘ
ルム2世が即位すると、このヒト、植民
地政策が大好きで、これ以上領土を増や
さない方針のビスマルクと衝突して
ビスマルクは辞職。
ドイツのウイルヘルム2世は領土獲得の
為にある政策をやり始めた。それが
3B政策。3Bとはドイツのベルリン、
オスマン帝国のビザンティン、イラクの
バグダッドを鉄道で結んで中東までのエ
リアをドイツが支配するというもの。
この前にイギリスは3Ⅽ政策を計画して
いました。3Ⅽとはエジプトのカイロ、
南アフリカ共和国のケープタウン、
インドのカルカッタ。これらの都市を結
ぶ海上ルートで支配するってのが3Ⅽ政
策。イギリスの3Ⅽ政策をドイツのウイ
ルヘルム2世がパクったわけです。
ドイツの支配ルートは、イギリスが獲得
しようとしているルートを横から脅かす
という位置にあったのです。
これで、一気にドイツとイギリスの中が
悪くなった。これに今度はロシアが、海
を求めて南下政策。そこにはドイツの支
配領域がある。
こうして、ドイツはイギリス、ロシアと
も仲が悪くなりました。
【続く】
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