【続きです】
「秀吉殿の時代には、今の伊予国(愛
媛)の今治府中7万石をもらったが、こ
こに来て今度は関ヶ原に西軍として参加
した。もっと領土欲しいし・・・。小早
川秀秋が陣取る松尾山のふもとで秀秋の
見張りのような形でオレは朽木、赤座、
脇坂らと並んで陣取った。オレの部隊は
2500人。少なくはない。今度ばかりは絶
対に負け犬にはなるまい。自分の力で勝
ち組に入らねばと心に誓ってこの関ヶ原
までわざわざやって来たのだ!
おや?あの歓声は何だ?松尾山から大軍
が下りて来るぞ。秀秋がとうとう寝返っ
たか!おや?脇坂が大谷隊に突っ込んだ
ぞ。朽木も一緒だ!
これでは西軍の勝ちにはならぬ。ようし
!オレも呼応するぞ。者ども、突っ込め
!敵は大谷隊じゃ。せっかく寝返ったの
だから、何としても勝ち組にならねば。
おお、東軍が立ち直ったぞ。秀秋の寝返
りとワレらの寝返りが功を奏したのじゃ。
これは大きな仕事をしたぞ!降伏ばかり
の武将人生にやっとおさらばじゃ。」
しかし、祐忠は功があったにもかかわら
ず、家康との「内応の約束がなかった」
として改易となり、伊予府中7万石を
すべて失いました。そして解散。
瀬戸内海をはさんで今治(伊予)の向こう
側は、尾道。ここには小川の姓がたくさ
んあります。しかし、ここは海と山だけ
で平野がない。
尾道の山の裏側府中はワタクシ小川の
故郷。ここは川と肥沃な土地に恵まれ
ている。名前も土が生まれると書いて
土生(はぶ)と読む。
実はワタクシの実家のお隣さんも小川。
町長さんも小川。郷土史会長も小川さ
ん。どこもかしこも小川、小川の小川
だらけ。
そこでワタクシは、小川祐忠の家系あた
りがわが祖先ではないかという仮説を勝
手に立ててみました。まあ、そいうこと
にしておこう。何しろ、父ちゃんの名前
「祐忠」の1字を貰って、「忠志」って
んだけど、生きてたらその名前の由来を
ホント、聞いてみたかったなあ。
話は変わりますが、小川祐忠は1601年
に亡くなっています。1602年に小早川
秀秋が通説では狂って亡くなったこと
になっていて、同じ月に秀秋の兄弟3人
も病死。コレ、偶然?京都のある神官の
日記に書いてあるんですよ。『コレ、
不思議ナリ』と。
だいたい、徳川家としては、小早川秀秋
によって伏見城で討死した家康の古参家
臣、鳥居元忠のことを思えば、秀秋を関
ヶ原の功労者にする訳にはいきません。
そうであれば、やはり誰かが秀秋をはじ
め、兄弟3人を始末したのか?
勝者は歴史を作って威張ります。敗者は
何とか、『そうじゃない!』と時間をか
けて弁明しようとします。滅亡者は誰も
弁明してくれません。小早川家は断絶し
た『滅亡者』ですから誰も弁明してくれ
ないんですよ。まあ、『死人に口なし』
と言ったところでしょうかね。
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