中華人民共和国のでき方(盧溝橋事件)②

【続きです】

中国は辛亥革命によって清朝が滅びまし
た。中国全体が群雄割拠の状態になるん
ですよ。その中で、勝者の孫文が1911年
に中華民国をつくりました。

辛亥革命で清が滅び、1911年に孫文が中華民国をつくった。

そして辛亥革命の8年後の1919年に『マ
ルクス主義研究会』ってのができた。
これが中国共産党の前身となる団体です。

マルクス主義研究会がスタートして、こ
れは反日運動に皆で没頭するんですよ。
それが後々の中国共産党になる。
中国共産党が結成されたのが1921年。
第1回党大会が開かれるんですけど、集
まったのはたったの12~13人。そこ
に毛○東もいるんですけど。元々、毛○東
は北京大学の図書館の司書だったんです
よ。

毛○東は元々、北京大学の図書館司書だった。中国共産党を立ち上げた12人の中の一人。

そのたった12人しかいない中国共産党
が孫文の国民党と政権争いをするわけで
す。政権争いと言っても、日本みたいに
選挙とかで争うんじゃなくて、殺し合い
ですからね。もう日本の昔あった戦国時
代と一緒ですよ。もう山賊みたいな。人
を殺したり、ものを奪ったり。もう平安
時代の東国の関東武士と大して変わらな
い。

政権争いは選挙じゃなくて、殺し合いで決めた。まるで東国の関東武士と一緒。

毛○東って、この人ね、革命家でやっぱ
り臭覚があるんですよ。ソ連は都市部の
労働者を束ねて革命をしたわけです。実
際それで成功した。じゃあ中国でもそれ
やろうと言ったって、都市部に労働者な
んていないんですよ。もう完全に農業国
だから、コレ農業で勢いつけなくちゃダ
メだという事で、毛○東は農村を束ねる
っていう戦略にしたら上手くいった。

毛○東は農村を束ねるという戦略に成功した。

で、徐々に中国共産党の勢いが大きくな
ったところ支那事変(日中戦争)が起こっ
た。日本軍が中国国民党軍と戦争を始め
るわけですよ。一説によると、この支那
事変も中国共産党が起こしたという説も
あるんです。

日本軍と中国国民党軍が争った日中戦争

つまり、盧溝橋事件(1937年)と言います
けど、盧溝橋で日本軍が契約に基づいて
進駐していた場所があるんですけど、い
きなり国民党の宿営地から弾が飛んでき
たワケですよ。

日本軍は中国国民党軍から弾が飛んできたので撃ち返したと言う。

何だっ!ってわけで日本軍が応戦するん
です。一方、国民党軍は日本軍側から最
初に弾が飛んできたと言うワケですよ。
で、何だ!って言って応戦したって言う
んですよ。

どうも日本軍の宿営地と国民党軍の宿営
地のあいだに中国共産党が入って両方に
撃ったと、このように言われているんで
すけどね。

盧溝橋

これが支那事変(日中戦争)の発端になっ
た。だから、中国共産党はですね、国民
党軍と日本軍が戦うように戦うように煽
って行くんですよ。まあ、国民党軍のト
ップは蒋介石ですけど、毛○東は蔣介石
をけしかけるんですよ。

1937年の盧溝橋事件が日中戦争の発端になった。

『悔しくないのか?あんな日本軍なんか
叩き潰しちゃえ!』っと言って、最初は
ね、蒋介石は日本との戦い消極的だった
んですけど、毛○東は煽って行くんです
よ。『やっちまえ!やっちまえ!』みた
いな感じで。
何か朝日新聞みたいですけどね。

      【続く】

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