『関ヶ原の戦い』の新説

関ヶ原の戦い

歴史が好きな世のおっちゃん達は、私も
含めて『関ヶ原の戦い』が大好き。
この戦い、朝早く始まって、お昼ごろに
は終わりました。この戦いに歴史家の間
では最近、新説が出てきました。
その新説ですが、
そもそも、最初の言い出しっぺは、毛利
輝元と(石田三成以外の)三奉行。
『徳川家康、討つべし!』という弾劾状
を出した。そして、毛利輝元と三奉行が
起こしたクーデターに乗っかったのが
大谷吉継。そして、大谷が石田三成に
一緒に家康を討ちましょうよ、と手紙を
出した。そして三成がそれに乗っかった。
コレが最近の『関ヶ原の戦い』の新説。

徳川家康

もっと簡単に言うと、毛利輝元と三奉行
のクーデターがあり、それに乗っかった
大谷吉継がいろんな人を説得しようと手
紙を送って、その中に石田三成がいた。

通説では石田三成が挙兵すると言って、
友人の大谷吉継に「どうかオレに力を貸
してくれ!」と言って、情に厚い大谷吉
継は「わかったよ。おまえがそう言うな
ら力を貸そうじゃないか。」と言って、
関ヶ原の戦いが始まりました。

大谷吉継(左)と石田三成(右)

話は戻って、新説の続きなんですが、関
ヶ原で西軍が破れた時に、毛利輝元は
石田三成を見切った。で、自分の保身の
為に『ワタシは総大将じゃないですよ。
三成こそが総大将!』という形にした。

家康は家康で、このまま輝元が西軍の総
大将ということで、話を進めていくと、
今度は毛利征伐をせなあかん。また戦争
じゃ。めんどくさい。

毛利輝元

毛利側はもう戦いたくないと言う。家康
としても戦いはしたくない。だとすれば
、三成が全部悪いという形にして処刑し
た方が、毛利も家康に従いますと言って
ることだし、話がまるく収まる。利害が
一致した。

で、石田三成は全部責任負わされて処刑
された。

京都六条河原で、石田三成は処刑された

これが新説。本当のタヌキは家康じゃな
くて毛利輝元じゃん。すべての発端であ
りながら、最後はすべて責任を三成にな
すりつけて、生き残った。

いやいや、もしそうだとすれば、恐るべ
きは毛利家。毛利家代々、至上命令が家
の存続だもんね。

実はワタクシの実家は広島の山間部で
お殿様は毛利家だったんですよ。もし新
説が正しければ、ワタクシ、殿に代わっ
て皆さまに、謝らなければなりません。

『さきの大戦で、このたびは、うちの殿
が、世間をお騒がせさせてしまい、ほん
とうに申し訳ございませんでした。』

それにしても、今テレビでやっている
NHK大河ドラマ『どうする、家康!』
では新説、通説のどちらの説を採用す
るんだろう?
ひょっとして、みんなあっと驚く
ウルトラCの説が登場したりして・・。

 

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