
エンパイヤーステイトビル

ニューヨーク
【続きです】
その6年後のことだった。繁栄を続ける
ニューヨークに苦難が襲った。ウォール
街発の株価の大暴落。世界を巻き込む大
恐慌の始まりである。街には失業者があ
ふれ、ニューヨーク市の労働者の3人に
1人が職を失った。


大恐慌で『炊き出し』を貰う人々
この危機に立ち上がったのがニューヨー
クの若き州知事、フランクリン・ルーズ
ベルトだ。ルーズベルトは連邦政府に先
んじて、ニューヨーク独自の政策を打ち
出した。それが積極的な公共工事。これ
が雇用を生み出した。

ニューヨーク市長のフランクリン・ルーズベルトは積極的な公共工事で雇用を生み出した。
若き州知事のもとで強力に計画を実行し
た者がいた。『ロバート・モーゼス』。
彼は影の市長と呼ばれた。モーゼスは
40年以上に渡り、公共施設の建設や改
修を次々と行なった。セントラルパーク
の改修も彼が手掛けた仕事の1つ。

トライボロ―橋も架けた。
彼は13の橋、670㌔の道路、658の公園
、そして15万戸の住宅を建てた。また
モーゼスは巨大なゴミの埋め立て地を
万国博覧会の会場に変えた。

影の市長と呼ばれたロバート・モーゼフはニューヨークの公共施設、セントラルパーク、橋、道路、公園、住宅を次々と改修・建設した。
しかし、この会期中にヨーロッパで第2
次世界大戦が勃発する。眠らない街ニュ
ーヨークは深い闇に包まれた。でもね、
皮肉にもこの戦争によってニューヨーク
の経済は完全に復活したんですよ。

第2次世界大戦が始まり、眠らない街・ニューヨークも深い闇に包まれた。
当時ブルックリンにはアメリカ海軍最大
の造船所がありました。多くの戦艦や空
母がここで建設され、7万人もの雇用が
生まれたんですよ。

ブルックリンの造船所

多くの空母や戦艦がここで造られ、7万人もの雇用が生まれた。
1945年8月、ドイツに続き日本も降伏。
200万人とも言われるニューヨーク市民
がタイムズスクエアに集まり、喜びの声
をあげた。

ドイツに続き日本も降伏し、ニューヨーク市民がタイムズスクエアに集まり、歓喜の声をあげた。

『日本が降伏したぞ!ヤッホウ♪』
戦後、ニューヨークを舞台にした1つの
映画が生まれた。『ティファニーで朝食
を』この映画は世界の女性たちのニュー
ヨークへの憧れを掻き立てた。

映画『ティファニーで朝食を』

この映画は世界の女性のニューヨークへの憧れを掻き立てた。
1971年、ニューヨーク・タイムズが世紀
のスクープを報じた。『ベトナム戦争に
関する国防省の調査(秘密文書を暴露す
る記事)』である。歴代政権が勝率が乏
しいにも拘わらず、ベトナム戦争介入を
深めていく記事が記されている。

しかし、この記事は政府に真っ向から挑
んでいくもので危険だった。政府の圧力
により連載は一時中断された。しかし
ニューヨーク・タイムズは最高裁に訴え
、勝利を納め、連載は再開された。この
スクープは世論を大きく動かし、1年半
後、アメリカはベトナム戦争から撤退す
ることになる。

アメリカはベトナム戦争から撤退した。
ニューヨーク・タイムズがこのスクープ
を放った2か月後、イギリスから一人の
スターがニューヨークに渡って来た。
ジョン・レノン、30歳である。ビートル
ズが解散後、イギリスメディアに疲れ、
妻ヨーコとニューヨーク移住を決めた。

ジョンレノンがニューヨークへ移住
ヨーコが『ここなら道を歩けるわよ!っ
て言うんだ。それで歩いてみたけど、い
きなり誰かが何かを言うんじゃないかと
、ビクビクしていて、それが無くなるの
に2年かかったよ。』

『道が歩けるようになるのに2年かかったよ。』
1980年代に入り、ニューヨークは財政危
機と治安の悪化に苦しみ、そこにジャパ
ンマネーが流れ込んで来た。この数か月
間、日本の投資家たちがエクソンビル・
ティファニービル・ABCなどのビルを買
い占めた。

日本の投資家たちは、エクソンビル・ティファニービル・ABCビルなどを買い占めた。
ロックフェラー・センターを日本の三菱
地所が買収した。つまり、あのスケート
リンクも高級ナイトクラブもミュージッ
クホールもすべて日本のものになりまし
た。

あのロックフェラー・センターを日本の三菱地所が買収し、あのスケートリンクも高級ナイトクラブもミュージックホールも日本のものになりました。
『続く』