
名プロデューサー・ 蔦屋重三郎
蔦屋重三郎は江戸時代中期の案内本や小
説の名プロデューサー。だけど農作物の
不作や浅間山の噴火なんかで大飢饉にな
ると、イケイケの老中・田沼意次からガ
マン、ガマン引き締め、引き締めの老中
・松平定信の時代になって、江戸で目立
つようになった蔦屋重三郎に役人の目が
光り始めました。

幕府の役人は蔦重を見せしめの為に処罰した。
蔦重は何とか、役人の目が及ばない分野
はないもんかと探したら、あった,あった
ありました。それが浮世絵。
浮世絵は絵師が描き、彫師が版木に写し
取って彫る。その版木を刷師が刷って仕
上げる大量生産の印刷物だ。浮世絵のジ
ャンルに参入することを決めた蔦重は自
分のもとで育てた絵師を起用することに
した。それが喜多川歌麿。

浮世絵
歌麿は黄表紙や狂歌の絵本の挿絵で群を
抜く観察眼と群を抜く描写力を発揮して
いた。この画力で美人画を描けば、どん
な作品が生まれるか。歌麿に描かせたの
が『美人大首絵』。それまでの美人画は
8頭身の健康的な女性達の全身がスマー
トに描かれていた。まあ、『鳥居清長の
美人画』のように。

喜多川歌麿
でも歌麿の描く美人画は上半身のアッ
プ。背景はあえて無地にしたため、表
情が迫ってくる。更にて手のしぐさが
正確や心の動きを感じさせてくれる。
歌麿は吉原の花魁の他、浅草寺のあた
りにあったお茶屋の娘『難波屋おきた』
さんをよく描いた。歌麿は美人の定番だ
けじゃなく、町の一般女性をも積極的に
モデルにした。『難波屋おきた』もその
1つ。

浅草寺あたりのお茶屋の娘『難波屋おきた』
吉原ともなると、チョット会ってみたい
なと思ってもなかなか行けない。
ところが、こういうお茶屋さんの娘だと
か和菓子屋さんの娘さんとかなら、チョ
ットお菓子を買いに行こうか、チョット
飲みに行こう、ということでいつで見れ
るもんね。気楽に会える町のアイドル。
ちょっと前の秋元康プロデュース
『AKB48』みたいなもんです。

初代AKB48
【続く】