「育む」の中には、豊かな愛情がたっぷり含まれています。

 

教育という字は、「教え」と「育む」で
できていて、おおまかに言えば、学校は
教えるところ、家庭は育むところ。

ところが家でも育もうとしないで、中に
は教えてばかりのママがいます。

学校でも教え、家でも教えるなら、
「教教」になってしまう。

「育む」はどっかへぶっ飛んでいってし
まい、子どもはあまり育たないんじゃな
いかな。

「育育」でも困るケド。

教教ママは「わからせれば、その通りに
やってできるだろう」と、理屈優先で考
える。

でも子供は、理屈よりもまだまだ体験の
動物。

体験していないことを理屈でわかれと
言われても、もうちょっと大きくならな
いとデキない。

そのうち、子どもは自分からやってみて
わかろうとはしない指示待ち人間になっ
てしまう。

そして「自分から学ぼう」「何でも知っ
てやろう」「やってみたい」という好奇
心がしぼんじゃう。

「子育て」が「子教え」になってしまう。

「子どもにどれだけ教えたか」ではなく
て、「子どもをどれだけ育てたか」が
親の腕の見せ所。

親は教えたくてウズウズするのですが、
そこはじっとガマンして、とにかくやら
せてみて口や手を出さずにお手並み拝見。

行き詰まるところまで勝手にやらせてみ
れば、そのうち子どもも何か気づくハズ
だ。

何しろ「育む」の中には、豊かな愛情が
たっぷりと含まれているんですから。

 

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