「白河の関」の巻

白河の関

 

今年の夏の甲子園は、仙台育英高校が
優勝して、とうとう優勝旗が「白河の関
」を越えました。

そして高校野球の白河の関の役割は終わ
りました。

やっと越えましたからね。

あれから108年。
東北民の念願が叶いました。

その「白河の関」ですが、もともとヤマ
ト政権が西日本の奈良だか大阪だか九州
だか、その他どこからか勢力を広げてき
た歴史があります。

で、敵対勢力は東にあって、その方向の
人たちを「蝦夷(えみし)」と呼んで
自分たちとは別の生活圏の人々としてき
ました。

だって、彼らにはまだ稲作文化なんてあ
りませんでしたからね。

稲作をしている所までが日本だよって。
東北地方は当時、日本ではない別の国だ
ったわけデス。

そして、ヤマト政権の北限が「白河の関
」(現、福島県白河市)。

源頼朝も足利尊氏も家康も、天皇に「北
の蝦夷を倒す将軍にしてあげるから、後
は頼んだよ」と言われ、征夷大将軍にし
てもらいました。

当時のヤマト政権は同化政策を進めてお
り、蝦夷の人々とヤマト側の人たちの
交流は深まり、北限は時代ごとに移って
いく。

で、今は稲作は北海道まで行き渡り、ど
こに行っても日本人ばかり。

白河の関のイミはなくなっちゃったのよ。

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